昭和41年02月08日 朝の御理解
私は、ある先生の御祈念を頂かせて頂いて、ほんとにその後ろで御祈念を一緒に頂きよりましてから、なんか元気が湧いてくるような、心強い感じを受けたことがございますが、けれどもそれが、なるほどそういう感じを受けると言うことで元気が出て、信心ができることによっておかげが受けることになるのでございましょうけれども、その祈りの言葉がどんなに素晴らしい言葉で綴られておりましても、その祈る内容が、熱烈な祈りを極めても私は本当のおかげになってこないと。
熱烈な御祈念をする。その御祈念をしとるその内容、その言葉と言うものが、どんなに私どもが魅力的な言葉でありましても、良い言葉が綴ってありましても、それだけではおかげは受けられない。ここでは御祈念が、一時間何ぼという時間を、いつも、ずっと御神前にぬかずかせて頂いて、いわゆる心中祈念でございますもんね。後ろここで声を出してなんか言っておられると、そのかえって周囲の人達に迷惑をこそ感ずるけれども言葉に出しては致しません。
けどもほかにお参りいたしますとですね、もうそれは例えば、どーぞどうぞ、ただいまの氏子のこと、お聞き届けを頂きますようにというて、声を出してその願いよるところがある。そりゃもうそこの教会のひとつの流儀であり、一つのま、アイデアですから、どれがいいの悪いのとは思いません。けども私どもも、ま、そういうふうにま、ほんとに声を出して、言葉にはっきり現わして祈らせて頂いたことがございますけれど、段々おかげを頂くようになりましたら、もう祈ると言うことは、もうただ問題はその思い、思うただけでも神様には通うのだと言うことですね。言葉に出さなくとも。
またそういうふうな、例えばま、言うなら私どもの魅力を感ずるよなその言葉を、後ろで御祈念を頂いておるものに聞かせなくてもです、ね、おかげは頂けるものだと、まあ、段々そういうふうに確信させて頂くようになってから、ま、椛目の一つの御祈念の、ま、流と言うのが段々でけてきた。こりゃあの椛目だけですよ、こんなに静かに御祈念をするのは。まず、ほりゃもうどこの教会にお参りしましても、お参りしても。
御祈念の後なんかでも皆さんが、も、一人一人もう隣の人の邪魔になるようなことはもう全然考えず、自分だけで一生懸命大祓いをあげて御祈念をすると言うのが、普通の教会ではそれなんですけれども、ここではもう皆さんがテープを聞いて御理解を頂いておられますから、途中で参って参りましてもやはり静かに御祈念をなさっておられるだけであり、また、御祈念をするよりも、もし御理解があるなら御理解の方を先に頂かしてもらえと言ったのが、ま、椛目の一つの流儀になってしまって、それが金光様のご流儀と言うことじゃないのです。
そりゃどちらがええの悪いのじゃないですけれども、ま、私はかくそう信ずるからそういうふうになって、皆さんもやっぱそういうことになっておられるのでございます。けど、その第一その、日勝り、月勝り、年勝り、代勝り、どうぞここにおひき寄せ頂きます信者の一人一人が、億万長者のおかげを頂きますようにという祈りをなさる先生があるんです。で、それ聞いたってですね、ほんとにもりもりと自分の心に確かに元気が湧いてくるんです。ファイトが湧いてくるです。
ほんとに日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのおかげを頂きたいと言う。だから自然後ろで御祈念しとってもうそん御祈念に力がいるです。しかも最後の言葉が魅力でしょう。ここにお引き寄せを頂く、御神縁を頂いておることごとくの、一人一人の信者が億万長者になる様なおかげを願うと言うのですから、やっぱ誰だってそれを願わん者はありませんものね。からというてなら、その教会にたいして億万長者がでけておるおるふうでもない、もう何十年間の経歴を持った教会だけれど。
と言うてなら日勝り、月勝りのおかげをその教会が頂いておられるふうでもない。だからそれだけは、どうかいけないことが分かりますですね。ですからほんとにその日勝り、月勝り年勝り代勝りのおかげの頂けるためには、どういう信心にならせて頂いたらよいかということをまず頂かなければならんと思うですね。御理解第100節の最後に、ね、生神金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃと結んでおられます。
家繁盛、どうぞどうぞ家繁盛、子孫繁盛のおかげを頂けますようにと、いくら願うてもです、金光大神が教えておられるところの家繁盛、子孫繁盛の道を教えると仰るその道を体得し、道を行じなければ、そのおかげは頂かれないと言うことが分かる。信心には何をするにいたしましてもです、ね、何をいたしますにいたしましてもです、ね、神信心には辛抱することが一番大切でございますと。
例えばです、これは三代金光様のお言葉なのですけれども、信心さして頂くものには、もう、神信心には、辛抱することが一番大切でございますと言う、もうこれを抜いたらおかげにならん。第一。火のような御祈念を捧げたからというてです、ね、おかげ頂くのじゃない。その辛抱こそ、身の徳を受ける修行じゃと、教祖の神様は仰っておられます。その辛抱こそ身に徳を受ける修行、ね、身に徳を受ける修行と言うのが成されなければ、いわゆる魅力であります日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのようなおかげにもならないし、億万長者の徳にもなってこないとこう思うのです。
そこでならその辛抱がです、ね、ただ歯を食いしばっての辛抱というだけではなくて、絶えず神様と何とはなしに通うておる日々の信心生活の中からです、神様の働きの間違い無さ、有難さというものを身に付けながらそれを感じながら、信心辛抱していくと言うのであります。ただ辛抱せろ辛抱せろと言うだけではない。その辛抱することの中にです、そういう辛抱しなければ味わえない味わいというものを頂くと言うことにおいてはです、ただ辛抱しとるだけでは味わえるものではない。
子孫繁盛の元である、ほんとに億万長者のおかげを頂かせてもらうところのその元である、そういう元をです、はあ、こういうふうにして、こういう信心を蓄積していきよればです、必ず日勝り、月勝り、年勝り、代勝りのおかげは頂けるんだなと、ね。昨夜の御祈念に久留米の佐田さんたちが二人で参っておりました。御承知でもあろう、有る方もございましょうけれど、最近はあのお酒屋さんを弟さん達に譲りまして、そして自分の本家筋にあたります佐田代の方の店を見ております。
あちらがお父さんたちが御兄弟ですから、いとこ同士になるんですね。その支店の方を見ておる。なかなか皆さんもご承知のように実に実意丁寧な方ですもんね。ほら、熱心です。そうに商売熱心です。まだ何ヶ月かでしょうけれども、もう支店の方のです、ちょうど4倍になってるそうです、売り上げが。いかにあの、親身にです、もうその代わりにあの奥さんが、恵美子さんですね、が言われるのにもううちの主人ぐらいもうほんとに商売の虫はおらん、もうそのことにもう熱中される。
だから店員の方たちも、だからもう給料とか、その務める労力とかと言ったようなことなんか考えない。もう休みであろうが何であろうがです、やっぱり出ていかなんとこ出て行ってから一生懸命される。それで店の方たちもやっぱりそれに右にならえをしておかげを頂いておる。ちょうど4倍になっておる。売上がまそういうような実績を上げ、そういうおかげをだんだん頂いておるわけですけれども、昨日お伺いがあった。
その佐田代のまあ、店の方針をです、だいたい内外に分けてです、内側の方へ力を入れるべきか、外側の方へ力を入れるべきかどちらの方へ先生、力を入れさせて頂いたよろしゅうございましょうか、というようなお伺いであった。そしたらですね、その内側もなからなければ、外側もない、中を大事にせろと神様がおっしゃった。中、これは又私はこれは非常に意味が深いことだから、またようとあぁた自分でもまた考えてごらんなさい、て言うて申しましたことでございますけれど。
中ということは、なら本店と支店との仲ということもありましょう。また自分がまた熱心さのあまりに従業員とその、その関係者の中のこともありましょう。同時にお伺いするところのです、中のこともありましょう。同時のお伺いに対するところの外もないじゃないか、内もないじゃないか、その中の中心をいけ。もう両方を大事にせにゃこてと言うような意味もあるように思うのでございます。お掃除をさせて頂きますのに、ね、内側だけでもいきますまい。と言うて、外掃だけでもいきますまいが。
やはりお掃除をするからには、どちらが先ということはあってもです、外掃したらまた内掃、内掃したら外掃をしてこそ初めて、おかげを頂くのでございますから、これやっぱたろうていかにゃいけん。そういうこともあろう。というてま、そのことは私もまだはっきり分かりませんからその程度に申しましたけれども、はあ、そうでございましょうね。そしてその次に私が頂きますことがです、私はこんな字はないと思ったけど、神様がそいけんあるのかも知れん。
草冠にね明日の明ですあけると言う字、日を書いて月と書いてこんな字ありませんね。文雄先生こんな字ないねって言ったら、ないですちゅう。ところが私ははっきりをれをあるような感じで頂くんです。月が二つならありますもんね。あれはこの萌いずるといったような時に使うです。ね、春の野に若い芽がそのこう伸びるとかね、若葉がこの出ると言うような時に萌いずるというような時に使う。草冠に月を二つ書いたのですね。けども私が頂くのは日を書いて月を書く、いわゆる明日の明なんですね。
皆さん、お分かりになるだろうね。どういうことか、佐田さん中を大事にしていけばです、自然に必ず、ね、自然にもう日に月に萌いずる様な勢いが段々出てきますよと。ま、言うならば佐田代の今は、まあ、ま、寒中のようなものなんだと。ね、だからこの寒中のここのところを大事にしていけと。皆さんもご承知のように久留米の佐田代というのは非常に古い有名な暖簾を持っておられるお店なんです。
ですから古ければ古いほど、やはりそこには大きな癌があったりですね、その営業方針に、ま、新しいものがないと言ったようなことになるので、わざわざ佐田さんを迎えられたわけなんですね。ほいで新しい生き方と、熱心な、また新な、そのそれを求められてから、佐田代の方へ行かれてわけでしょうけれどもです、佐田さんのその生き方がです、ね、また新しい佐田代のいわば生き方に今度は段々なっていくだろうと。
ところがここんとおころを辛抱しぬかせて頂いて、じっと寒中にその春を待つ草の根のように、木の芽のようにです、ね、そこんところの辛抱しぬかせて頂いて、いわゆる神信心には辛抱することが一番大切でございますと言う、仰るような、ね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃという、身に徳を受けながらの辛抱というものが必要だと言うことなんだ。次に私の心眼に頂くのが、こんな大きなどろいもなんです。
ははあこれがこういうようなのが、私はよく知らんけれど、ま種芋になるのじゃないだろうかと思うような芋を沢山頂くんです。ですからそれはなるほどあれはあのまま持っておけば芽ぐらい出ましょうけれど、また本当の芽が出て実が入るというためには、あれを土の中にやはりいけなければならん。土の中にいけていかなければならん。でしょうね、だから又、私はそのことにまたそのことを付け加えさせて頂いた。
ね、私はこういう字は知らんけれど、ま、私に御理解をくださるんだろう。だから同時に、日に月にと書いてあるけれども萌いずるという意味もあるだろう。ま、日を崩したら月て言う字にならんわけでもない、ね。ですからその御理解にはだから自然に、ここんところの辛抱しぬいていけば、日に月に必ず繁盛の一途を辿るようなおかげを頂けるよ。それには、種芋ではないけれど、芋のお知らせは繁盛、もう芋ほどざっくり芽が出るものはないと言う意味でしょうね。
ですから、そのためにはその土をですね、その上にかぶせていかにゃいかん。これに一つ本気で土の信心させてもらわにゃいけないということでした。土のような信心こそ私はお道の信心の一番素晴らしいとこではなかろうか。教祖の神様、その人が土のようなお方であったと言うことなのですから。いわゆる金光教の信心は土の中から生まれたとさえ言われるくらいですから。
ですから私どもがです、そういう信心を身につけていかなければいけないと言うことなんです。実意をこめてすべてを大切に、実意をこめてと。実意しかもその込めただけではなくて、それをすべての上にこの実意を表していかなければならん。夕べの御理解を頂きましてしてから、もうあちらに下がってからでした。丁度下がっとりましたらまたあの文雄先生がやって参りました。もう東さんが毎日日参をしております。
ちょうど、またとうとう12時ぐらいまで、そのストーブを囲んでからいろいろ話しております中にです、私達が信心させて頂いてですね、こと神様ということの方に向って行ったときです、もういやもうほんとに自分でもう異常なくらいに、そこんとこを大事にいたしますですね、私は。例えばなら教会なら教会の親先生が、こうとどうか言われたら、もうそれが忘れられんのです私は。
いついつはああじゃんのこうじゃんのと言われたらそれがもう本当にこれがまあ、現在はほんとに相すまん事になっとりますけれども、私の過去の信心です、いうならば、もう親先生が仰ったことなんかも忘れられんのです。もうそれはうちのこと何をおいても、だからこのことに実意を持って取り組む、取り組んでおったとま自分で思うのです。例えばなら善導寺から風呂敷なら風呂敷を借ってきてと致しましょう。
もうほんとにわたしはほんなこて、もう今日それが今日、よそからならどうか疎かにするか知れんけれど、教会から借ってきたと言うのならもう実にもう几帳面なことでした。ところが椛目の方たちはほんとにそこんところはろくそなか人たちがおるんですよ。風呂敷は借っていって借りっぱなし傘は借っていきゃ、借りっていってからとうとう返しもせんちゅうなのが、あの皆さんここに何十本ちゅうてから、あの共同の傘があったでしょうが、あれがみんなかしうしなしとるとですよ。みんな信者さんが持っていっとるとですよ。ね、例えばこげなことでね、おかげが頂けるはずはないですね。
だからそれは私どもはの場合こと神様こと教会、こと親先生のことの言われたことに対しては確かにそう慎重だったですけれども、なら私生活私のことになって参りますと、そういうものがないのに、ほんとにこげなことじゃいかんなといつも思うことで御座います。それがですねやはり私昨日ちょうどあの繁男さんもあそこ一緒でございましたから、も、繁男さんあんたたちは生まれつきそげんとは持って生まれておる。
土のようなものをいうならば、だからそれは別にたいしてよかこつはなかよ、それが磨きださあれてから始めて良いのだと。教祖の神様だって同じこと。土の様なものを持っておられるけれども、あれが様々な信心により難儀に直面されるたんびんに、それが素晴らしいものに磨かれたから良いのであって、性質的に持っとるだけではつまらん。それが磨き出されていかなければと言うて、ま負け惜しみの様な事をま、話したことで御座いますけれどもです、昨夜の御理解の中にも、繁男さん達の話が出ているんですよ。
昨日、ちょうどあちらの長男の国男さんが、御造営の当番でした。で、午前中出て来とりました。そいで、午後から用事がありますので、ご無礼いたしますというて言いよりましたから、私そのままになっとると思うた所が、夕方になったら、繁男さんが見えましたもん。それからあの、ああどうしたですか、と聞いたところが、あの国男が帰って参りましたから私は代わりに出てきましたちゅう。
だから昼から昨日は繁男さんが出ておられるわけなんです。ね、もう言うなら10か月なんなんとそのして御用のことは続けられてございますからです、ね、私はそこまで、そこまでですたいね、もう息子は午前中に出とるのだからこんなわけで忙しいのだから、だれでもそれを出てこなければどうということは言わんのだけれども、あそこに繁男さんの信心があると思うですたいね。
息子の出番に半日しかできんから、あとの半日は親が代わりに出らせて頂くと言うようなことなんですね。そんなわけで、昨日はまあ終日それから又、私の御用を頂いて、晩の御祈念までま、おられたわけなんです。ちょうど御祈念かかる前です。そのことを私が夕べの御理解にしてさせて頂きましたら、そこのストーブ囲んで話しながらですもん、豊美が申しますもん。
もう今日の御理解を頂きよってから、あの繁男のおっちゃまと大和さんの話を、しよる、もうそれこそもう惚れぼれとしてから、あの話を聞いたというてから言うとるんです。私共にその欠けた、私、なら豊美達なら豊美にもそれが欠けておるから、ほれぼろれとそれを感じられるわけなんですね。日頃求めておる、けどもできない。ね、ちょうどその御祈念にかからせて頂く前に、でしたが、ちょっとあの大和さんにここからあの電話を拝借してから掛けさせてもらいますち言う。
何のちゆうた所が、先日から畳の表替えをしたいと思いよったち。そいであの頼んでおりました所が、あのいつでもよかですよ、あのいつでも来てあげますと言うちゃったから、あの電話をかけますち。ならはよ御祈念前、掛けておいでというてからかけて降りて見えましたから、どげなふうじゃったですかというた所が、明日ができませんげなち。そりけんで明後日来て貰う事になりましたと言うて言われるんです。
どうしてやというたところが、大和さんな明日は御造営の当番になっとんなさるですからちこう言われるです。もう私はもうそれを聞かせて頂いてですね、素晴らしいと思うたんです。大和さんの信心に対してです。またそういう方なんですよね。こりゃもうどげんでん言い訳はできるでしょうが。繁男さん方のでございますから、あの今日は誰かに代わって頂くとか、ご無礼してから、あの、と、そりゃ大和さんは言えるところですけれども、そんなに大事にしておられると言うことですよ。
繁男さんに言われたそうです。あら、明日は私は当番に当たっとりますたい、ち。だけん明後日じゃいかんじゃろうかちゅう、なら明後日でよございます。私は明日そのあなたに来てもらおうと思うてから、今日お天気も良かったから、畳を干し上げてから、きれいに掃除して、しとりますけれども、父の休んどるとこだけは畳もまだ敷いとるけんでよございますち申しました。またこれを聞いて私は感心しましました。
皆さん、私はろくそなかけんで、皆さんはそうなさっとるかもしれません。けども私は初めて聞きました。表替えをさせて頂くのにです、前の日からちゃんと干し上げて掃除をしとくちゅうのですから。もう私はほんとに繁男さん、素晴らしかの、私はあぁたのそげな話を聞くたんびんに、やっぱりほれぼれとするというわけなんです。息子のために半日出てくるということも、ね、畳屋さんに来てもらう時に、ね、まず前の日にそれを干してきれいに掃除をしておくというようなこと、行き届いた考え方も、なるほど教祖の神様の在り方というのはそういうようなあり方ではなかっただろうか。
断りはどんなんでも、言い訳はできれるような事柄を、明日は、私はあちらの現場の当番になっとりますからと、仕事を一日前、先に延ばされるその大和さんのそれにしろです、これにしろです、ね、お道の信心の中にこういうようなものがです、日々の生活の中に脈々として、私どもの生活の中に入り込んで来とらなければだめだと言うことですよ。実意をこめてすべてを大切にと言うことはそういうようなことなんです。
お互いが言い訳にならん言い訳をして神から離れると仰るが、そういうようなことではないかと私は思うんです。日に月に、おのずと萌いずる様なおかげ。日勝り月勝り、年勝り、代勝り、どうぞ一人一人の信者がです、億万長者の徳を受けますようにと言う、その言葉なんか私どもは実に魅力である。そのような言葉を聞いておるだけで元気がでるような感じがするけれども、それだけではおかげは受けられないということ。
そこには実意をこめてすべてを大切に、神信心には辛抱することが一番大切でございますと言う。その、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃというのは、そういう私は信心から、実意な信心から、言うなら、種芋に土をかぶせていくような信心とは、そういうような信心ではなかろうか。そういう信心が内容、私は出けさせて頂いて初めてですたい、ね、これに感じることもできるでしょう。は、この調子でいけばです、ね、
確かに日勝り、月勝りのおかげの頂ける土台がでけて行くに違いはないというものを、この心の中に神様は送ってくださるとこう思うです。ね、お互いが信心を長年続けておるけれども、ね、もういい加減萌いずる様なものがなからなければならんのに、それが今年も芽が出なかったというようなことを一つ思うてみてですたい、ね、その寒中のその萌いずる前提になるところのものをです、私どもが疎かにしておるということを分からしてもらって、ね、なるほど芽も出ません。
それこそ枯れの葉のようにしております、そこんところをです、実意をこめてすべてを大切にと言うようなことになってこなければです、私はおかげは、本当の意味でのおかげは、いわゆる億万長者的な徳にも、日勝り、月勝り、年勝りといったようなことにもです、ならん。金光大神は、家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰る道とは、そういうような道を行じていくことではないかとこう思うのでございます。
どうぞ。